■『海のはくぶつかん』1997年11月号

三保の海岸浸食

 佐藤 武  

三保と富士山

三保半島の地図  静岡市の安倍川河口から清水市の三保真崎へつづく総延長が約18kmの海岸のうち、4分の3にあたる約14kmの海岸が浸食にさらされています。安倍川河口から始まった海岸浸食が清水市の「羽衣の松」付近の海岸までおよんでいるのです。
 安倍川河口から約8kmの静岡・清水市境より北東の海岸は清水海岸と呼ばれているのですが、図にしめすように、「蛇塚・増海岸」(安倍川河口から8〜10kmの海岸)、「駒越海岸」(10〜12km)、「折戸海岸」(12〜14km)、「三保松原海岸」(14〜16km)、「三保真崎海岸」(16〜18km)と分けて呼ぶことにします。本文では、とくに三保半島(砂嘴:さし)の折戸海岸と三保松原海岸の浸食について紹介したいと思います。
 三保砂嘴は北海道根室近くの野付(のつけ)崎とならんでわが国では数少ない典型的な複合(分岐)砂嘴として知られています。
 清水市折戸・三保地区には幼稚園から大学まで数多くの教育機関があり、折戸海岸や三保松原海岸はそれらの学校の教育活動の場としてさまざまな形で利用されています。幼稚園児や小学生の浜遊び、中学・高校生の海岸マラソンや部活、大学生の海岸コンパなど、例をあげればきりがありません。雄大な富士山を望む三保の浜辺は人間形成のための大きな舞台装置でもあるのです。
 一方、三保を訪れる人にとって、三保の浜辺と富士山が作り出す風景の素晴らしさは“絶景”としてながく心に残るものであると思います。さらに、天女の伝説や能の「羽衣」、三保と富士山を詠んだ数多くの和歌など、三保の風景が文化形成に果たした役割には大変大きなものがあります。かつて海岸の塩田で製塩が行われたり、地びき網漁が行われたり、休日には多くの釣り人でにぎわう三保の海岸は地元の人々の生活とも密着しているのです。
 しかし、いま、ウミガメが産卵のために上陸した自然の砂浜は刻々と失われつつあり、三保の浜は人工の海岸に姿を変えようとしています。

消える玉砂利の浜辺

 本来、三保の浜辺は礫(れき:直径が2mmより大きな粒子)帯に縁どられた砂浜です。河川によって陸から海洋に運び込まれた砂(直径が2mmから1/16mmまでの粒子)や礫は波や沿岸流によって横方向に移動して海岸を形成し、荒天時の大波や海底地すべりで沖合い方向に運搬されます。

三保海岸の航空写真  三保海岸は、日本有数の急流河川である安倍川によって運び込まれた砂礫が、南に口を開いた急深な駿河湾に進入する波によって北に運ばれて形成されたものです。海岸を移動する砂礫の量は年間13万m3と見積もられています。地形図を比較すると、1914〜1994年の80年間に三保真崎海岸は北東に向かって最大約300mもその幅を広げてきました。
 今年は国によって行われてきた安倍川の砂防事業が60周年を迎え、現在までに上流部の33箇所に砂防ダムなどの設備がつくられました。また、昭和30年代の高度成長時代の最盛期には、年間、ダンプトラック10万台分という大量の砂や礫が建設材料として安倍川の河床から採取されたといわれています。これらのことで安倍川流域の洪水や土石流災害が減少し、多くのビルや高速道路等が建設されて、人々の生活が安全で豊かになったのと引きかえに海岸が浸食されはじめました。
 1969〜71年頃に安倍川河口付近で始まったといわれる海岸浸食はつぎつぎと北東に進んで、1994年の春には折戸海岸に達しました。
 1994年11月2日に撮影された航空写真(静岡新聞社,1995に加筆)を見ると、左下の清水南高校付近の海岸はかなり痩せて(浸食されて)いるのが分かります。本来、この付近の海岸の幅は100mを優に越えていて、1990年頃は付近の清水南高校の生徒がこの浜で野球をしていたことを考えると浸食の実態がいかに激しいものかが分かると思います。
 最近の折戸海岸の状況を紹介しましょう。清水市折戸の東海大学海洋学部付近の海岸のC地点において、かつて約130mあった海岸(防潮堤から高潮線までの距離)が1996年7月には50mを割り込んで、今年(1997年)8月には30m以下になり、現在(9月)は護岸工事が行われています。また、東海大学海洋学部と三保第二小学校との間の海岸べりには魚(ヒラメ)の養殖場があって、魚を育てた海水が排水されています(B地点)。1994年当時、海岸の防潮堤(遊歩道)から約 100mにあった排水孔までの距離はその後の浸食で、排水の土管が流失し、現在は50m以下になってしまいました。

人と自然との攻防

 この様に、同じ地点で海岸を観察すれば浸食の過程が理解できるし、駒越から三保真崎に向かって海岸を歩いてみると、すでに浸食されてしまった海岸からまだ浸食のおよんでいない本来の海岸まで、浸食のさまざまな段階を見ることができ、同時に、いろいろな海岸浸食対策工事を見ることができます。
 清水市駒越より北東の海岸では従来の海岸保全工法に代えて、沖合に「ヘッドランド(人工岬)」とよばれる「離岸堤」(りがんてい)が建設され、少ないながらも海岸が残っています。
 1997年7月から羽衣の松沖では「突堤」(とってい)の建設が始まっています。突堤は、移動する砂や礫をせきとめて海岸に砂礫を増加させるためのものです。1996年秋から1997年春にかけて、突堤建説予定地より北の三保松原海岸を侵食より守るため渚の4ヵ所に「消波堤」(しょうはてい:波消しブロック)が設置されました。現在、設置された波消しブロックは一年も経過しないうちにかなりの部分が変形(沈下)しています。
 “沈下”は他の離岸堤や渚の消波堤でも日常的に起こっており、この事は、荒天時に海岸や海底の地盤が液状化することによると思われます。渚に置かれた波消しブロックが砂礫を含んだ荒波に削られ、海岸の砂のなかに徐々に沈下していく様子が清水南高校付近の折戸海岸や三保松原海岸で見ることができます(表紙写真)。
 浸食対策の工法のひとつとして、「養浜」(ようひん)が駒越海岸と折戸海岸で行われています。養浜は、波によって運び去られる砂礫を人工的に補う方法で、海岸浸食対策としては理想的な工法なのですが、海岸を移動する砂礫の量にははるかに及ばないのが現実のようです。せっかく、搬入した土砂が一度の嵐で跡かたもなく運び去られてしまうことがあります。しかし、波に持ち去られた砂や礫は浸食の下手の海岸に運ばれて、浸食を遅らせる役割を果たしていると思われます。

三保の渚を守るには

 さて、現在浸食されていない三保の浜を守ることはできるのでしょうか。三保砂嘴の形成過程や現在までの浸食の経過を考えれば、「手の加えられない自然の海岸」を守ることは非常に難しいことと思われます。現在、さまざまな浸食対策工事が計画され実施されています。しかし、安倍川河口から折戸海岸までの状況を見てくると、このままでは、将来、海岸に多くの人工構造物がつくられ、それによって「部分的に自然の海岸が保全される」状態になることは明らかです。どうやら、人と自然の戦いで、人間に勝ち目はなさそうです。
 最後に三保の海岸浸食対策に関して筆者の意見を述べたいと思います。
 第一に、安倍川の砂防事業、河川管理事業、静岡・清水海岸保全事業を一体として総合的に実施することが大切で、砂防・洪水防止・海岸保全の三者を満足させ、海岸の砂礫の収支を健全化する妙案を考えだすことです。本質的な海岸浸食対策としては、養浜を継続するしかありません。養浜の材料としては海岸を構成している砂礫と同じ組成のものが良いのですが、富士山の大沢崩れから流れだす砂礫を利用することなども考えられます。これには膨大な予算が必要ですが、「三保の風景」を守ることは地域の問題ばかりでなく「名勝」といわれる国民的な文化遺産を守ることだと考えれば納得できるものと思います。三保の渚を守ることは「日本の風景・風土」を守ることであり、それが育んだ「文化」を守ることでもあるのです。
 第二には、三保の海岸浸食の実態を良く知ることです。前に述べたように、海岸を歩きながら観察すると海岸浸食のいろいろな実態を見ることができます。三保の海岸は現在、さながら「海岸浸食の博物館」です。海岸を観察(ビーチ・ウォッチ)し、浸食の実態を知ったうえで、三保に住む人、訪れる人、一人ひとりが知恵を出し合って、協力することが「天女の浜」を守る第一歩になることと信じています。


『海のはくぶつかん』Vol.27, No.6, p.4〜6 (所属・肩書は発行当時のもの)
  さとう たけし:東海大学海洋学部海洋資源学科教授

最終更新日:1997-11-25(火)
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     東海大学社会教育センター
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