■『海のはくぶつかん』1997年5月号

アユの生活を遺伝子で追跡する その1

 沼知 健一

アユの生活−生態学的にみることと遺伝子で追跡すること−
 今回と次回、アユが親から子、子から孫とどのように生き続けているかを話しましょう。今回はまずアユが生きている一般的な様子を、次回は遺伝子の研究で判ったアユの生き方を話そうと思います。私の研究室は、ちょっと変わっていて、タンパク質やDNAの分析をもとに、魚介類が種族を維持している様子や進化の道筋を研究してきました。魚の酵素やDNAも大変面白いのですが、私たちの研究のねらいは魚の種族の維持や進化を明らかにすることで、酵素やDNAは研究の道具なのです。
 種族の維持の様子は、魚を目で追いかけないと、とても判らないと思うかもしれませんが、川に棲む魚でさえも目で追いかけて判ることには限りがあったり、既に研究されていたりして、これまで判らなかったことをはっきりさせるには見方や研究法を変えないと難しいことが多いのです。私たちはアユの遺伝子の分析を始めて8年になります。その結果、研究を始めた頃には考えられなかったアユの生き方が浮かび上ってきました。次回に遺伝子の分析で判ったことを話すことにして、今回はアユの自然史、つまり生き方の一般的な様子を話しましょう。

アユの分布と生活史
 アユは日本各地、北海道は余市あたりまでの日本海側、本州は太平洋、日本海側の両側、四国、九州、韓国の日本海側、そして奄美大島まで広い範囲に分布しています。台湾や中国本土には今はいないので、アユは日本を中心に分布している魚といえます。有名な魚類学者ジョルダンは、アユはこれまで味わったことがないすばらしい味と香りをもった、魚のなかでも特別おいしい魚と述べています。日本人は、昔からその味、香りだけでなく、姿・形までが好きで、年間の水揚げ高は300億円以上に達します。また、習性を巧みに利用した友釣や特別精巧な毛バリなどアユ独特の釣の技術や道具もあるほど釣好きの人に好まれている魚で、経済的に、あるいは趣味と実生活で外国人には考えられないほど日本人に好まれてきた魚です。
 アユは9月半ば過ぎから川で産卵します。0.3mmのシャープペンの芯よりも細い、体長が5mmにも達しないふ化したての稚魚は、流されて2、3日以内に海に入るといわれます。春4月初め、川の水が温み始めると、体長が4〜5cmにも成長した稚アユが一斉に海から川に上ってきます。稚アユは堰のような段差のあるところではあっちこっちで元気に飛び上がりながら、群れをつくって遡上します。9月には15cm以上になり、やがて成熟、産卵して、1年ちょっとでその短い一生を終えます。

アユの超合理的な生活
 アユは、このように秋の遅い時期から冬の間は海に、春から夏、秋には川で生活しています。ヤマメのように一部の個体が川に残るとか、他の個体が川に上るとき一部が海に残るということはありません。どの個体も一生の前半は海、後半は川で過ごし、季節によって川か海の一方にしかいません。それでは、その時期、時期に川や海で過ごすメリットは何かあるのでしょうか。実は、アユは海と川の環境条件の違いを自分に有利なように利用しながら、さらには自分の形や生活の仕方を変えながら、みごとに適応しています。
アユに関するグラフ  まず、水温を見てみましょう(図1)。海の季節は川より遅れ、最低水温は冬ではなくて、春になってから現われます。アユは水温が低い冬の間は暖かい海で過ごし、川の水温が上がり始めると川に移ります。図1を見れば、アユは水温条件がいい方だけに住んでいることが判るでしょう。
 海に下った稚アユは細かい鋭い歯をもっていて、微小な動物プランクトンや有機残渣、デトリタスと呼ばれるものを食べています。沿岸域は川に比べて栄養塩、プランクトンともに多く、稚魚は豊富なこれらの餌を食べて、どんどん大きくなります。
 栄養や生産性が海に比べ明らかに低い川に入ると、アユは食性を動物から植物に変えます。瀬の玉石の上に生える硅藻やラン藻を食べるのです。植物は、植物を食べて生活する動物の約10倍以上も多く生産されます。そこで、アユは生産性がより低い川でも十分食べることができるのです。生態学的にいえば、生産性が低い川では栄養段階を一段下げて、生物量が多い藻類を食べる戦略をとっていることになります。
 図1で見るように、アユが川で生活を始めてまもない5月頃にはお日様の光がもっとも強くなり、8月いっぱいは高い値になりますから、この期間藻類はよく生長します。川底1m2uについている藻の量は多いところでは80gもあって、5〜6尾も生長できるといわれます。
 藻がよく生えて、アユが活発に餌を食べているのは、水深50cm位で、流速が毎分70cmもある瀬といわれています。このように流速が早いところで平たい石の表面から珪藻を摂ることは容易ではありません。ところが、アユの学名のPlecoglossus altivelisPlecoglossusが「ひだになった舌」を意味しているように、川に上ったアユは口の構造が石に付いた藻類をはぎ採って食べるのに都合がいい形になります。まるで靴の下敷きのような形とやわらかさを持った下顎の側面を平たい石や岩にこすりながら泳ぐと、下顎の一部が反転していって「ひだになった舌」が岩の表面に密着して押しつけられて、藻類がはぎ採られます。口の形が変わるのは、川に入って体長が6〜7cmになるときです。川に入って器用に“ヘンシーン(変身)”するのです。
 アユが餌を食べた後は、笹の葉のような食み跡が残されます。altivelisは帆を張ったような高い背びれを意味しています。流れの早い瀬で体をひねって藻を食べては、すばやく体をたてなおすことを繰り返せるのは、スマートで、しなやかな体と高い背びれをもったアユだからできることです。
 アジメドジョウやボウズハゼも石の上に生えた藻を食べるそうですが、アユはほとんど競争相手もなく、瀬で食べ物を独占できます。若アユに食べられて、藻の表面に付いた泥なども除かれ、滑らかな石の表面が露出して、藻が一層付き易く、新しい藻もどんどん生えます。川に上がったときには5gほどだったアユが、6月には100gになるものがあるほど急速に成長します。
 世界中にはいろいろな川がありますが、日本の川は長さが短く、勾配の大きい急流河川で、珪藻やラン藻がよく生えます。清流の女王と呼ばれるアユは、このような川があってはじめて生活できる、またこのような日本の川にきわめてよく適応した種類ともいえるでしょう。


『海のはくぶつかん』Vol.27, No.3, p.2〜3 (所属・肩書は発行当時のもの)
  ぬまち けんいち:東海大学海洋学部水産学科教授

最終更新日:1997-06-10(火)
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