■『海のはくぶつかん』1995年1月号

海洋科学博物館の25年を振り返って

鈴木 克美 

 当館の開館は昭和45年5月ですから、今年満25年を迎えることになります。
 開館の前年秋、海洋科学泄ィ館の建設に参加することが決まって、初めて三保を訪れました。まばらな松林のあいだに枝豆畑が広がるだけの、まだ、へんぴで静かな土地でした。博物館の工事はすでに始まっていて、海の向こうに大きくそびえる富士山を背景に、海洋水槽の骨組みが建築中でした。水族館の建設に関わるのは3回目でしたが、ここは、それまでにない構想を持った博物館として、いずれ、社会をリードして行くにちがいないという確信が感じられました。このような計画に参加する感激と、責任の重さに、身がひきしまる思いでした。
 当時は、わが国に海洋開発ブームが始まろうとしていました。博物館開館の当年、海洋科学技術審議会から、佐藤栄作首相に「海洋開発のための科学技術の開発計画について」という答申が出され、わが国もようやく、海洋技術の発展に目を向け始めていました。
 東海大学の故松前重義前総長は、その10年前から海洋開発の重要性を説き、昭和37年、まったくユニークな海洋学部を開設しました。当時すでに、海洋科学博物館の構想があったそうです。当館は、その名のとおり、海洋に関する総合科学博物館で、1階が水族館、2階が博物館、3階が研究所となっています。一般公開の社会教育施設として、一方では、海洋学部の研究・教育施設としても活用するという、見方によっては、たいへん欲張った運営方針が立てられました。
 博物館での25年を振り返って、印象に残ることのいくつかを書いてみましょう。
 博物館の建設に参加して、最初に強い感動を受けたのは、海洋水槽の大きさでした。正直なところ「こんな大きなものを、よくも考えたもんだ」というのが、水族館人としての第一印象でした。この大学へ来て、自分の考えてもみなかった発想の大きさ深さに敬服した最初の経験でした。
海洋水槽(写真1)

 深さ6m、縦横10mの巨大な水槽は、フロアに立って見上げると、たいへんな迫力でした(写真1)。従来の水族館の巨大水槽は、ほとんどコンクリート水槽に窓を開けたものでしたが、この水槽は、600m3もある茶筒型の大水槽の周囲が全部アクリルガラスで囲まれています。海水が入る前から、ひまがあればその前に立って、いろいろと思いをめぐらせました。
 といえば、格好はいいのですが、じつは、難問がいっぱいなのでした。水槽の中に、どのような景観を作り出すのがいいか、それには、どう岩を組んで、どう積み上げればいいか。どうすれば海水を合理的に循環させられるか。酸素の欠乏をどうおぎなうか。どんな魚をどれだけ入れればいいか。水槽とフロアの明るさはどう考えるか、この水槽で、何が研究できるか…。
 まだ、水の入っていない大水槽を眺めて、そこに出現するであろう完成後の姿を予想するのは、思ったよりむつかしいことでした。海水を入れたときの屈折の様子も、明るさ暗さもわかりません。水面の様子も見えません。頭の中に描いた予想図が、そのまま出現するかどうか。
 今は、もっと大きな水族館の水槽が、アメリカにも日本にもあります。それらは、先進の施設の連想から、出来上がったときの様子を予測できます。けれども、東海大学では、まったく初めての経験でしたから、海洋水槽に無事に海水が入り、小さな海が出現したときの感激は忘れられません。ほっと安心して、思わず溜息が出ました。
 いよいよスタートした博物館で、チームメイトといっしょに、サクラダイの生活史の調査を始めました。研究者が自分で海に潜って、魚の生活を観察し、水族館で飼うための活魚採集を標本調査にも結び付ける。一方で、水族館での飼育観察にもつなぎ、できれば卵をとって子を育てよう。当時はまだ、スクーバ潜水が魚類研究に結び付いていず、海水魚の産卵育成に取り組んでいる水族館もほとんどありませんでした。今見れば、不十分なところの多い研究でしたが、それなりに苦心した「駿河湾におけるサクラダイの生態」という最初の論文が、権威のある学会誌の審査を通って掲載されたときは、本当にうれしかったものです。
 サクラダイの研究は、その後の当館の研究を進めてゆくハズミになりました。また、現今の各地の水族館での産卵育成の研究や、スクーバを使いこなした海洋生物の研究の盛況を見ると、感慨深いものがあります。
昭和天皇(写真2)

 開館して4年目、昭和49年2月19日に昭和天皇、皇后両陛下をお迎えしたことも忘れられない思い出です(写真2)。昭和天皇はことに水族館がお好きな方で、お二人のご金婚記念旅行に当館見学をご希望下さったと承りました。昭和天皇が、玄関ホールを早足に通り過ぎて、円柱水槽に歩み寄られ「このタツノオトシゴは、なぜこんなきれいな黄色なのか」と、質問された大きなはっきりしたお声が、耳に残っています。その後、駿河湾で潜水採集したヒドロゾアをお届けして、生物学御研究所を見学させていただき、ご専門の生物について教えていただいたことも思い出されます。
 水族館の大きくもない水槽に、カタクチイワシやマイワシを数千尾、ビッシリと泳がせることができた日のことも、ぜひ書き留めておきたいと思います。イワシは、それまで、水族館で飼えないと思われていました。それまでの水族館は、飼育のむつかしい魚、名前はよく知られているが、珍しくはない魚には、手を出さない傾向がありました。そういう、アジとかサバとかイワシこそが、飼育のむつかしい魚なのでした。そのイワシが、今はどこの水族館でも飼えるようになっています。うれしいと思います。
 昭和53年4月29日、機械水族館がオープンしました。昭和50年の沖縄国際海洋博覧会の芙蓉パビリオンで人気を呼んだ機械生物(メカニマル)の展示ホールです。ただのカニのロボットではないかという人もいましたが、なにか、ひらめくものがありました。動きもギクシャクした、見たところ簡単な構造のロボットですが、その裏に、なみなみならぬ創造の苦心がこめられていました。
 これを、そっくりゆずり受け、「海の生きものに学び、海洋開発の未来を考える」というテーマのもとに、新しい展示ホールを作りました。短期間で終わる博覧会用に作られた展示物を博物館の常設展示とするのですから、担当技術者の日々の努力はたいへんなものでした。お陰で、機械水族館は、今でもまだ、世界の他のどこにもない当館の目玉の一つでありつづけています。
 東海大学海洋科学博物館は、四半世紀を過ごしましたが、もちろん、その歴史は終わったわけではありません。それどころか、これからが正念場です。
 25年の思い出も、試行錯誤の連続だった日々をなつかしむだけではなく、明日につなぐステップの確認でありたいと思います。新しい歴史は、新しく創造して行かなければなりません。真心をこめて、新しい毎日を積んで行きたいものです。


『海のはくぶつかん』Vol.25, No.1, p.2〜3 (所属・肩書は発行当時のもの)
  すずき かつみ:海洋科学博物館副館長

最終更新日:1996-08-18(日)
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     東海大学社会教育センター
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