それでは次にノコギリガザミを見てみましょう。
大きいほうの鉗は全体に太く頑丈で内側にある歯も臼歯になっています。反対の鉗は比べてみると幾分ほっそりとして歯も薄く刃物のような形をしています。大きいほうの鉗では獲物の殻を砕いたりしっかりと挟むのに適した形をしています。小さいほうは刃物のような歯を利用して餌を切り取る仕事が得意そうです。
鉗の内側をもっと詳しく見ると、先端では物を小さくちょっと摘むように、中間は切り取るように、蝶番に近い根元の最も力の出るところではクルミ割りのように砕く形をしています。
ノコギリガザミは体に比べて随分大きな鉗脚を持っていて、左右の大きさ・形も違うのがはっきり判ります。右と左の鉗脚で大きさや形が違うとそれぞれに機能役割を分担すれば、両方を足したときにより多くの機能が持たせられます。
同じ形・大きさの鉗だと役割に違いがないので左右の鉗脚で共同作業をしても変化に富んだ仕事ができません。
タカアシガニの鉗が左右でほとんど違わないのは、海底にある餌を拾い砕いて口へ持っていくだけの比較的単純な仕事ですむからと思われます。
一つの関節を「伸ばす・曲げる」と動かせるのを1自由度と言いますが、カニの鉗は自由度が小さいので、左右の鉗の形を変えて役割を分担し、両手で多くの仕事ができるような進化の工夫がされています。
カニは外骨格で包まれた硬い体に関節の数を増やして柔軟さを補っています。関節の多い鉗脚は体のほとんどの所に届くようにできています。
ヒトの手は自由度が大きく、制御するための脳も発達しているので外見上はあまり左右の差がありません。あらゆる動物と比べて最も発達・特殊化していて随分と複雑な仕事ができます。ヒトの手は多機能になり仕事の目的に応じた道具を使うようになっています。そのまま素手でいろいろな仕事ができるけれど、更に手の能力の延長として道具を使っています。
私たちもちょっと実験をしてみましょう。両手に工具を持ってカニになった気分でいろんな仕事をしてみましょう。実際にしなくても手に工具を持って出来る事を連想してみるだけでも面白いかも知れません。右利きの人は普通左手で物をつかみ、右手で加工をするのが普通ですね。
両手とも同じ機能の工具を持つと、できる仕事が限られてきませんか。違うものを持ったほうができる仕事の幅が広がりそうです。しかし組み合わせる工具があまり違うと両手で連携した仕事ができなくなりそうです。
シンプルに見える工具にも実は工夫が込められているのです。例えばナットを締めるメガネレンチを観察してみると、口が中心線に対して角度を付けてあります。裏返せば狭い所で回せる範囲が広がり使い勝手が良くなってずっと役に立つのです。この角度がなければ全く使いづらい事このうえありません。
カニに話を戻して、次に左右での機能分担が進んで特殊化した鉗脚の例を見てみましょう。
トラフカラッパです。普段、鉗脚を手で顔を隠すようにして海底の砂に潜っています。
カラッパの仲間は巻貝の貝殻を壊してその中に住むヤドカリを食べるように鉗の形が特別に変化しています。片方が缶切りのような形で使い方も同じで他方が普通の鉗になって貝をつかんで回します。左右の鉗脚で一つの仕事をするようになっていて他の仕事にはかえって不自由しそうです。
もう一つ特殊化した例を見てみましょう。
潮が引いて一面に広がった干潟で雄が大きな美しい鉗脚を盛んに振って潮を呼び寄せているように見えるところからシオマネキと付けられました。実は招いているのは潮ではなくて同種の雌に対して求愛行動をしているのです。鉗脚が大きくて美しい程雌を引き付ける効果が大きいようで、現在のような色・形に進化したのでしょう。この鉗脚は餌をとるためには役に立ちません。
カニは歩脚の一番前の1組だけが鉗になっていますが、ほかの歩脚も鉗のような形になっている種類もいます。キメンガニ・カイカムリなどでは後ろの2組の歩脚が鉗のような形になって、身を守る貝殻などを背負うようになっています。
上の写真のゼブラガニはウニ類の棘につかまって隠れ住むのに都合の良いように4組の歩脚の先端が鉗のような形になっています。これを擬鉗といいます。
左右で形や大きさが異なる理由をお話ししてきましたが、また別の理由もあります。カニは自分自身を守るために脚を自切する能力を持っています。失われた脚は脱皮のたびに再生成長しますが、その途中では大きさが違う鉗のように見えます。
近いうちにカニやエビを食べる機会があったら左右の鉗の違いを観察してみませんか。基本的に私たち人間と体の構造が違う生き物のカニがどんな風に両方の鉗を使っているのか想像してみるのも面白いでしょう。タラバガニの仲間は厳密にはカニとは違うグループですが同様な事が観察できます。カニと近縁のエビでも同じ様になっているのでしょうか。機会があればこちらも観察してみて下さい。でもカニ料理で両方の鉗を独り占めにすると皆から非難されそうですけれどね。
『海のはくぶつかん』Vol.23, No.5, p.4〜6 (所属・肩書は発行当時のもの)